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歴史

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善光寺門前から全国へ

善光寺御高礼前

初代勘右衛門が創業し、二代目五左衛門が製造法を確立して、販路の拡大を図る中で、善光寺堂庭で仮店を設けて販売を手がけ、善光寺という、全国的な信頼を集める巨大な力の下で商売をする効率の良さを悟りました。

善光寺からの信頼を得るまでにはさまざまな苦労があったと想像されますが、堂庭の中で一番よい場所御高札前に店を張る「特権」を許されたのは、三代目儀左衛門の時代からだったと言われています。

江戸末期から明治初期の善光寺界隈の様子を知る上で貴重な資料となる、長尾無墨編輯『善光寺繁盛記』(明治十一年〈1878年〉出版)に、八幡屋礒五郎の古い売りすがたが描写されています。
「枝垂れ柳の下に高札が立っていた。その下に大きな傘を開き、台を士つらえて、一人の老人が七色唐辛子を売っていた。その袋の表には『善光寺御高札前八幡屋礒五郎』の十三文字が記されている。台の上には、大きな袋や小さな袋が左右に積まれていた。箱も置かれていて、味ごとに七つに区分されている。そして、客の好みに応じて、小サジで、七つの味を調合して売っていた。」

善光寺御高礼前

押印判の袋

押印判の袋

八幡屋礒五郎の七味唐からしの特長として、忘れてはいけないのが、パッケージのデザイン。当時使われていた紙袋のデザインは、江戸末期に流行った木版画の技法を用いて作られたものです。以前は先祖の出生地である鬼無里村で作られた和紙「山中紙」を使っていました。

ブリキ缶

ブリキ缶

もう一つのパッケージ、ブリキ缶は、六代目栄助が大正十三年、五十六歳のときに考案したものです。紙袋よりも食卓での実用に便利で、耐食性も強く、現在も八幡屋礒五郎の顔として多くの人に使われています。ブリキ缶のデザインも、六代目栄助が考案したと言われています。赤地に斜めに大きく描かれた唐辛子。その上部のヘタの部分に振り出し口を重ねると開くように作られています。裏面には空と石畳の中に建つ善光寺。金、銀、青、赤の四色が艶やかです。

大門町出店

善光寺御高札前から現在の大門町に出店したのは、昭和二十七年、七代栄助のときでした。
当時一袋十円の商いだった八幡屋礒五郎が長野市の一等地に店を構えるというので、当時の人々にとっては信じられないほどの驚きだったようです。その後は、六年に一度の善光寺御開帳や新幹線開通、長野冬季オリンピックなどにより長野のおみやげとして知られるようになりました。平成20年3月には新店舗として生まれ変わりました。

大門町出店